MARTH
分子でものを見るのか、素粒子として世界を見るか…。 そして、人生をどう生きるのか、どう生きたか、どうあったかが、今、何よりも何よりも 大切なことと感じる…。
分離からくる自我の勝った負けたや、私という分離の地位、名誉。 そのような分離的に展開される自己拡大によるガラクタとは、美しき生はまったく無関係であり、その分離をこえ、生を美しき正義と愛(ひとつ)で満たし、幸せに生きたかは人の価値において何より重要な部分であることでしょう…。
もし、分離感という妄想のもと、自我の戦いや偽善、不正や悪しき人々との策略などに弱さゆえに加担してしまえば、万物から嫌がられ、嫌われた、その分離感を、美しき自らの本質、要は素粒子と呼ぶ森羅万象の創造主体の一部が、分離した自らを許さずにつぐなおうとしたり、正そうとして罰してしまうのは、明らかです…。
それほど、人の本質の構成要素が愛であり、純粋さであり、そのような愛からのがれられる人は、この世界にひとりもいないのです…。 ですから、何よりも、誰にとっても本当は、人生をどう生きるかが何よりも重要であり 分離から生きるか、ひとつ(愛)の想いに生きるかは、人にとって人生を左右する 大きな大きな選択であり、人生を真に幸せに生きる法則であることでしょう…。
そして、愛と正義をいつも胸にいだき、私利私欲をこえ、無私や無我無心というすべてとひとつにつながる一体性で生きる人々への万物自然からの素晴らしきギフトこそが 永遠性です。 自我(分離感)とは、分子のみの世界で生きることであり、腐食酸化の世界からのがれられずに暮らすことであり、逆に、素粒子的愛の世界である一体性や、永遠性のもと愛を生きる人生は、すべてと共に生きることとなるのです…。 愛と正義を胸にいだき、森羅万象と共に、創造主体の一部として生きるときのみ 人は永遠の中に暮らします…。分子が朽ちても、電子的生、愛(すべてとひとつ)の生をとわに生きることでしょう…。
しかし逆に、もし、このすべてが一体の美しき世界で 分離を信じて生きるならば すべてが破滅に向かい、大切な大切な、とわにあるスピリットを失い、あらゆる苦しみ のもと、何よりも大切な神秘の中で、とわに生きる生をなくしてしまうのです…。 そして、この物語が、そのようなテーマから生まれ、そのような、一体性が大切にされ描かれていることに強き喜びを持ち、あらゆる方々の本質である愛からの真の至福と幸せへの回帰をうながし、愛の未来をつくれることを心底願ってやみません…。
MARTH